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2015-01-12

恥も外聞もなく、自分で育てたネギを直接行商してみたい、初夢。

いま今年初めて藤原新也さんのWMを読んだ。一気に目が覚めた。フランスで起きた、風刺新聞社襲撃事件に関する考察がかなり長く述べられている。実に読み応えがある。

私など単細胞は、特に自戒しないとすぐあらぬ一方向に流されてゆきがちなので、私が疎い世界のことに関する時代の深層を感知するアンテナ人として、私は藤原新也さんがどのように発言しているのかを、一つの指針にしている。

こうもおびただしい情報が多岐にわたるメディアから日々流されていると、人間の感覚は麻痺する、私も例外ではない。だから努めてニュートラルな感覚をキープするためにもブログを書いている、とも考えているのだ。

私ごときの無知丸出し拙文であれ、書くためには他者の優れた文章、文字を自分の体に絶えず刷り込みながら、お風呂に入るように、文字を洗いながら書かないと単なる自己満足(ほとんどはそうなのですが)に終始してしまう恐れを私は感じる。

後で読むと、誤字や変換ミスがなんとも多いわが五十鈴川だよりだが、恥をかきつつITの海に飛び込む覚悟で始めたのだから今のところ全く後悔していない。 おかげさまで、この5年間がささやかに充実しているのは、わが体が一番自覚している。

さて、たびたび書いているが、無知というものは恐ろしい。 そのことを藤原さんの一文からまた学んだ、アルジェリアとフランスの悲劇的歴史に関して知らされた。つくずく謙虚であらねばならないとため息をつく。

そして思う、このかろうじての謙虚さが自分の体の内に棲んでいる間は、きっとブログも書き続けられるし、ささやかな自己表現もできるのではないかと。

ともあれ救いがたい、とまで思わずにはいられないほどに、世界の混沌化(国内外の)は日々私に伝わってくるが私自身にできることは限られている。それをしっかりと 見失わないように、日常生活の普遍的基本を、今日も生きるしかない。

ところで、いきなり話は大きく変わる。今サンナンの冬の畑には十分に食べられるネギが 生きている。2月からはチシャトウを植えるので、私はもったいない感に包まれる。どこかの誰かに、直販したくなるのだが、いまいちためらう自分がいる。

なぜためらうのか、わかっている、本当に困っていないからだろう。おなかを空かし,飢えてたら恥も外聞もなく、売りに行くだろう。自分が種をまいた畑のネギを見ながら、私は小さい頃の年老いた行商のおばさんたちのことを思い出す。

そして、18歳で世の中に飛び出し、何も怖いものがなかった時代の 自分を思い出す。かってやれたことが、年を重ねるとどうしてこうもおっくうになること自体が、老いるということなのか。

ともあれ,ネギを直接見知らぬどこかの誰かに売ってみたいという思いは、未だかすかに私の中に残っている。アフリカやインドでいろんな 路上販売の人たちを見たがあれが商いの原点ではないか。うーむ、血が騒ぐ。

必要な人たちに、超安価で直接販売する、それでもし 利潤が出たら、全部企画にともなう経費に充てる、初夢である。

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